どうでもいい話

来年もよろしくお願い致します。

今年はいろいろありました。

一般社団法人エスポワール高知に参加させていただき、新たな挑戦を始めるきっかけの年ともなりました。

人と接する心得として、当事者目線や、相手に寄り添う、相手を尊重して同じ目線であるためには、相手の言葉に触発されて勢いアドバイスなどをする必要がなくむしろしてはいけない、ただただ傾聴するだけで良いということも学びました。

自分は今まで、たとえ暴言を吐かれて心が傷ついても、たとえ暴力にさらされても、そう言わせる行わせる原因は自分にもあって。なにが原因なのか、なにを正せばよいのか、いつもいつもどのように自分を改めていけば良いのか、心に抱えて過ごしてきました。

人と人の関わりの中では、相手だけではなく自分も関わっている以上、トラブルが発生したときには自分の至らなさを感じ、なんらかの対処や対応があったのではと考え、改善を図ることがもっとも大事だと考えてきました。

自分を変えることを欲してきました。

しかし。

今年は、相手の行為が「許せないこと」ならば、決して許してはならないことに気づきました。相手のためにも、周囲のためにも、自分のためにも。許せない行為は許してはならない。

その許せない行為を許してしまったら、ただただ相手は同じことを繰り返してしまう。そして反省もなく生涯を通してその相手は、その迷惑を他人へ当然のように行っていくのです。

「偽善もまた善」と言いますが、それは偽善によっても善の行いは周囲への善となり周囲を救う可能性があるからこその言葉です。

自らの偽善に留まらず、行者の善行を金銭で買い自分の善行のように吹聴して振る舞い、自らを変えたいと願い悩み頼ってきた善人には、自分の欲する行為を善行だと言葉巧みに気持ちを利用して酷使する。子育てにおいて自分は悪くなかった間違っていなかったと主張したいがために、自分の子は他人に任せ、慕ってくる当事者へ丹精込めて活動して成果を得て「あれは例外だった」として自分は正しいとするを欲する。

行者の善行を金銭で買い、慕うものに善行を行わせ、その成果を自らの善行として、故に自らが善人だと主張する。

つまりは、善人の善行を貪る行為。

どんだけ自分本位やねん!

おかげさまで今年は、「許されない事があり、許してはならない」ということを学ぶことができました。

そして、許せない気持ちを知ることこそ、この世界を許せないまま世界を拒絶している人々、つまりは、ひきこもり当事者と気持ちを共有するために必要なことのように感じています。

許せないことは許すな。そういう立場に立つ。その上で、許さないままに、それは相手のあるがままとして、認めて、接する。前へ進むために、それはそれとして、前へ進むために「自分」をどうしていけばいいのか。それを考えていきたい。

この歳になって、ようやく「許せないこと・許してはならないこと」を得ました。

許せないは許せない。当たり前の気持ちを知る機会を得られました。

ありがとうございました。

私は前に進めているようです。

人は間違うし。人は過ちを犯す。

それはわかるけれども、どうしていくべきなのか。

許せないを得て、許すを得るか、そうでないのか。

人が人を裁くことが許されないように、人が人を許さないのも、これまた過ぎたことかもしれません。

え、じゃあ許すの?

うーん

「許さない」は心の重りになって心のリソースを奪うので、「どーでもいい」にするべきだといろんな人には話してきました。

許さないけど、どうでもいい? どうでもいいけど、許さない? いいのかそれで?

まさに、どうでもいい話!

まだまだ、私のソーシャル・ディスタンスは途上のようです。

来年は更に良い年となりますように。