家族は一番近い他人

怒られると悲しいのは、大人になっても同じ。

「親だから」「子だから」そうした言葉で許容を迫られるのはとてもつらい。

子どもにとって親は、生まれてから今まで一緒に居て、しかも人間として成るまで参考にし続けていた存在なんだから、何がいいたのか、何をしてほしいのか、嫌というほどわかっている。それを果たせないことがどれだけ裏切りであり、自己嫌悪に感じて、死にたくなるのか。

親の意見は聞かないのに、他人の意見は耳を貸す。他の人の協力を得ないと、会話すらまともに叶わない理由はここにある。何が言いたいのかすべてわかっているので、みなまで言うなというのが本音なのだ。

聞かなくても言いたいことはわかってる。だから口にせずに責めないでくれ!
心の叫びを代弁するとこうなる。

しかし、頼られている親や家族の立場としては、一言いいたくなるのもわかる。なぜなら、ひきこもられて衣食住もろもろの面倒を見るのは家族の方だからだ。面倒見てるんだから、一言いいたいのは当然である。それに頼られると断れない。「親だから」「家族だから」と言われれば尚更つらい。経済的に苦しいと尚更どうしようもなく、食費を切り詰め、ため息の日々。

子は、親の気持ちもわかってしまうから余計に自己嫌悪して自殺願望が育っていく。

親も子に対して違和感を抱え。
子も親に対して違和感を抱える。

会話無く避けあい、諦観と孤独と自己嫌悪と自殺願望の連鎖。
昔はこうじゃなかったのに。互いに言いたくないけど言ってしまう。

──では、いつからこうなったのか。

率直に「成人」してから変わったと互いに認めるべきです。

法的には成人して扶養義務が無くなった段階で、親と子ではなく親族になったと考える。

そんなドライに割り切るとか人間じゃないと言われようが。事実は素直に認めないと、物事が解決しません。子の生活サイクルが違ったり食事や要望を拒否して自分を主張する。子供の時と違って親の要求が高くなり自立を求めたり家計協力を要望したりする。

成人したから、互いに人権を主張して衝突をし始めたわけです。

だから、相手の人権を尊重すると同時に、自分の人権も尊重しなくてはいかなくなった。

付き合い方が、親も子も大人へと変わったのだと互いに認めることから始めましょう。

21世紀のご家庭は、権利の尊重を中心とした子育てを教わっているのでそうした権利の衝突をどうすれば解決できるのかを学んでいるのですが、20世紀の子育てにはこどもの権利なんてありませんでした。もちろん発達障害なんてありませんでした。

もう少しわかりやすく言うと。

今の子育てには「親だからこうあるべき」という在り方は無いし。「子だからこうあるべき」と親の言い分を聞くのが当たり前のような価値観は、教えられていません。

親は、子どもを養育するための経済的援助と権利の保障、親として子が求める接点を持つことが必要なだけで、親として子の手本であることを強要される社会ではなくなりました。

親の不足分は、勉強会や社会がサポートします。ただし手助けするだけであって親であり子を養育するという部分は肩代わりできないし、家庭を放棄しないように助言します。

同時に、親から教育を強制するという社会でもなくなり、こどもの権利を尊重して、こども自身が判断して選択できるように、必要な助言と教育の機会を与える、強要はしないというのが、現在の子育てと教育のあり方です。

「だれもが自分らしく生きる」がテーマです。

では、ひきこもり当事者と家族の「自分らしく」とはなんなのか。互いの違いを認めて、互いを尊重して。譲れる部分を互いに譲って折り合いをつける。「決めつけ」から脱却して、まっすぐありのままを認めることからはじめましょう。

ドライに感じるかもしれませんが、他人同士で同居してうまくいかないのはむしろ当然だし、その当然を超えて互いに譲り合って同居が出来るのは、家族だからです。

知らないおっさんと同居は無理なので別居以外にありませんが、家族だから同居を選べるんです。

働いてなくてもいいじゃないか。一流のヒモとして娯楽を親が要求してもいいじゃないか。

とりあえず、ひきこもりって定義から「同居」って言い変えられる関係にしませんか?